桜満開の伊賀上野城

2021.3.30
 黄砂の影響で、視界が悪い天候でしたが、時間とともに明るく晴れ渡ってきましたので、桜満開の頃の美しく、優雅な伊賀上野城を隈なく空撮することができました。

 天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。
 慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。
 慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。

 五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。幕末まで国替えなく、この地を収めました。

 現在の復興天守閣は、当地選出の代議士、川崎克が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守台に建てたものです。昭和7年(1932)に着工し、昭和10年(1935)10月18日に竣工しました。
 木造三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守の”昭和の城”は、伊賀地域の文化と産業の振興の拠点として「伊賀文化産業城」と名付けられました。また、その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれ伊賀のランドマークタワーとして市民に親しまれています。