宝塚古墳は、松阪の市街地から南に3kmほど離れた丘陵上にあります。
昭和4(1929)年、三重県を代表する郷土史家 鈴木敏雄氏がおこなった、飯南郡花岡村(当時)遺跡調査の際、村人から聴き取った「宝塚」が古墳の名称となりました。この鈴木氏の調査が契機となり、昭和7(1932)年には宝塚1号墳及び2号墳は国史跡に指定され、現在まで保存されることとなったのです。かつて周囲には、たくさんの古墳が存在したことが知られていますが、残念ながら開発により、そのほとんどが姿を消してしまいました。
平成11(1999)年から、松阪市が発掘調査をおこなったところ、1号墳造り出しで類例のない姿の船形(ふねがた)埴輪が発見され、全国的に注目を集めました。
船形埴輪をはじめとする宝塚1号墳出土品は、当時の姿をよくとどめており、1700年前の古墳時代を研究するうえで貴重な資料であるとの評価をうけ、平成18(2006)年に国重要文化財に指定されました。
古墳の形は、葬られた人物の力の大きさによって決まっていたと考えられています。古墳時代の全時期を通して伊勢国最大の前方後円墳である宝塚1号墳は、伊勢の王墓として他を圧倒する規模をもちます。宝塚1号墳に葬られた人物は、近畿地方との深いつながりをもち、近畿地方から東国への玄関口にあたる伊勢湾西岸の広い範囲を支配する立場にあった人物と推定されています。
宝塚1号墳は、5世紀初頭(およそ1600年前)につくられた、伊勢地方で最大(全長111m・前方部最大幅66m・後円部直径75m・最大高10m)の前方後円墳です。古墳の北側には、マツリの場とされる「造り出し」と呼ばれる幅約18m・奥行き約16mの舞台状の場所が設けられ、古墳本体とは土橋でつながっています。この造り出しの周囲から140点もの埴輪が当時置かれた位置を保った状態で発見され、埴輪群の配列など、古墳でおこなわれたマツリのようすを研究するうえで大変重要な資料となりました。
宝塚2号墳は、5世紀前半頃に造られた、前方部が短い「帆立貝式(ほたてがいしき)」と呼ばれる前方後円墳です。発掘調査の結果、前方部が道路工事で削られていることがわかりました。しかし、道路の反対側で前方部の角を見つけることができたので、古墳の正確な大きさを知ることができました。また、2号墳では、1号墳でみつかった壷形(つぼがた)埴輪はみつかっていません。その代わりに、壷形埴輪と円筒(えんとう)埴輪が一体化した朝顔形埴輪がみつかっています。このようなことから、2号墳は1号墳に葬られた人物の後継者の墓であると考えられます。
平成11(1999)年に着手した発掘調査では、1号墳「造り出し」で他に類例のない姿の船形埴輪が見つかり、全国的に注目を集めることとなりました。この埴輪は、全長140cmとわが国最大規模で、船上に立体的な飾り物を樹立する形としては唯一のものです。船形埴輪のほかにも、円筒・壷・蓋(きぬがさ)・盾(たて)・囲(かこい)・柱状・短甲(たんこう)・家などさまざまなものの形をかたどった埴輪が出土しました。当時(約1600年前)の姿をよくとどめた、多種多様な形象埴輪が畿内以外の地域で見つかる例はめずらしく、宝塚1号墳出土品は平成18(2006)年に国重要文化財に指定されました。
また、今年3月から、文化庁の審議会で、前方後円墳「宝塚1号墳」から出土した船形埴輪1点、囲形埴輪3点、家形埴輪4点の合わせて8点が新たに国宝に指定されることになり、松阪市文化財センター「はにわ館」で展示していましたので、写真撮影してきました。ご覧ください。